熊本県北チーム主催『DIYリノベまち歩き@たまな くまもとDIYリノベ2018特別ツアー』。『くまもとdiyリノベ2018収穫祭』前に〝DIYリノベ妄想まち歩き” 。こんなまちで何かが起こらないはずがないことを、みんなで感じたまち歩きになりました。
玉名駅の「クルーズトレインななつ星」を見送り、衰退気味の商店街の中に大型分譲マンションが建つ不思議な線路沿いを歩きながら、一直線に菊池川の高瀬エリアまで800mほど、再生妄想物件を見ながらブラブラ。
このまちの魅力は写真のように、江戸時代に米の河港や、橋が無かったという菊池川の渡し場として繁栄した頃の。輸送の人工河川「裏川の景観」や「阿蘇溶結凝灰岩を使った二連アーチの高瀬眼鏡橋(1848年:八代の石工 橋本勘五郎)」、河川まで搬出入の石坂「俵ころがし」など石造り。
そして、フランス積みレンガの鉄道橋脚などの土木遺産景観。菊池川に橋がない時代の熊本往還として殿様の御茶屋や、繁根木八幡宮付近に郡代所。河港として栄えたまちとなり、町人による自治がされていたとのこと。
大河ドラマ的には「西南の役の関が原」とされ。代々の醤油醸造の「マルヨシ醤油」さんや河川敷でお会いした建築家の方、誰しもが昨日のことのように西南戦争を自分ごととして語られるのに驚く。
「経済の要衝、高瀬の争奪を巡って両軍の主力が初めて激突、激しい戦闘がおこなわれた。
官軍の乃木少佐が玉名村で負傷。せごどんの末弟 西郷小兵衛が戦死。25万俵の米蔵 高瀬御蔵など大半が焼失。
官軍・薩軍にとって高瀬は譲ることのできない要地のうえ官軍の勝利となり、西南の役の勝敗の分かれ目となった。
高瀬を失った薩軍は、南関 進出の見込みが断たれ、北進は完全に挫折。以後、薩軍は田原坂へ退却し、長い長い消耗戦となる。
征討有栖川親王の本営・薩軍病院・仮県庁が置かれ、日本赤十字社(博愛社)発祥の先駆けといえる。」